信越国境 境ノ宮の御神木を探す旅
今日は、僕のブログでは数少ない日本の話題です。
御神木に打ち込まれた薙鎌
■先日、宿泊した旅館の大女将と話し込んでいる内に、御神木に薙鎌(なぎがま)を打ち込むという不思議な神事に興味を持つ。 その後、御神木を探して山中を彷徨い、ついに薙鎌を見つけた。 それは、なんとも不可解な形状の鎌だった。
長野県小谷村の小谷温泉 山田旅館
この旅館については、後日の記事で紹介。
Google Maps → https://goo.gl/maps/mwrEJDERQkB2
■2泊3日の遠足で雨飾山に登ったのは高校生の時。 登山前日に上写真の旅館に宿泊した。 あれから30 40年、今回は登山ではなく、懐かしさ探しの旅。 こんな話題が基になり、当時の事を思い出した大女将と1時間ほど帰り際の帳場で話し込む。 高校生一行の宿泊は初めての事。 新潟県ではトップレベルの高校だったので、とても嬉しかったそうだ。 更に話題は、この地の歴史や代々伝わって来た神話へ発展する。
標高1,963mで、長野県北安曇郡小谷村と新潟県糸魚川市の県境にある。
■昔々、それは神話の時代、この地は神様にとっても鎮護の界になっていた。 長野県側は諏訪大社祭神の建御名方神(たけみなかたのかみ)、新潟県側は沼河比売(ぬなかわひめ 奴奈川姫)が治めていた。 当時、地元では奴奈川姫は根知姫と呼ばれ、その地名が現在も残っている。 根知姫は突出した才女で、その子孫も然り。 それで新潟県頚城地方出身者は優秀なのだそうだ。 この小谷は、戦国時代は信濃 武田信玄と越後 上杉謙信が対峙し、江戸時代は農民による信越国境紛争が起きている。
山田旅館の資料館には、戦国時代から代々伝わる品々が展示されている。
興味深い物が見られるので、小谷温泉に行かれた際には是非。
■日本には県境が定まっていない場所が今も複数個所(5ヶ所?)あり、この小谷温泉北部もその一つだと言う。 にわかには信じ難い話だが、国土地理院等の正確な地図では、長野県北端と新潟県の県境が表示されていない、らしい。 実際に国土地理院の地図を見た事が無いので、僕は断定した表現を避けているが、興味のある方は調べてみたら面白いかも。
写真は、長野県戸土を新潟県側から撮影。
Google Maps → https://goo.gl/maps/g4soHufqqhx
■信越国境争論で幕府裁許状の証左となった一つが、式年薙鎌打ち神事だった。 これは、諏訪大社の鎮護範囲又は神威の及ぶ範囲を示す神事とされ、7年に1度 諏訪大社 御柱の前年に 大祝により行われている。 (7年は数えであり、実際は6年に1度) 薙鎌(なぎがま)は、諏訪大明神建御名方神(たけみなかたのかみ)の表象であり、神の憑代(よりしろ)と考えたり、中には諏訪様の御神体としている神社もある。 かつては、開拓道具の鎌で、これが神格化されたもの。
■薙鎌打ちの神事は、大社の下社から薙鎌2体を捧持した大祝一行が、小谷村の総社である大宮諏訪神社に来て1体を納める奉告祭を行い、6年毎交互に戸土の境の宮と中股の小倉明神の御神木に1体を打ち込む。 古くは白池のほとりの神木に打っていた。
■薙鎌は神聖な場所に保管し、宅内には持ち込まない。 大祝の滞在中、薙鎌は大宮諏訪神社内に奉安して置くが、この間、村人は「鳥目を上げる」と言って、お金や麻を上げたとの事である。 (鳥目とは、お金のこと) 小谷村から御神木のある戸土までは地蔵峠、大峠(三坂峠)、安房峠を越える20kmの峠道となるが、いよいよ戸土へ出発するときは、地元の神主全員は勿論、小谷七ヶ村の庄屋、組頭長百姓の村役人を始め、多くの村人の氏子がお供の行列を整えて、賑やかであったと伝えられている。
■この神事は明治11年に一度途絶えたが、昭和18年から復活。 現在は山越えの道ではなく、姫川沿いの国道148号線を通って、新潟県糸魚川市の根知谷から戸土へ上がって行われている。 前回の神事は昨年(2015年8月に)行われ、大祝一行は小谷温泉 山田旅館に宿泊している。
この部屋は、一般者の宿泊には提供しないようだ。
■さて、ここからは、実際に御神木に打ち込まれた薙鎌を探す旅。
根知川沿いの道を上流に向かうと、イワナ養殖場があり、
そこで再度聞けば詳細位置が分かるとの事。
ただ、山道は草木が生い茂り、普通の恰好では行けないらしい。
Google Maps → https://goo.gl/maps/6CFUSQmMH9T2
この時代、1984年に新車で購入していたとすると、よほどのRV好き。
車両について詳しく知りたい方は、PDFファイル、classicwinnebagos.comへ。
Google Maps → https://goo.gl/maps/hbAtbeptU772
衛星画像でも確認でき、30年くらい前に読んだ西村寿行の症候群を思い出す。
イワナの養殖場を過ぎると、舗装された道は急に狭くなる。
新潟県から長野県へ。
長野県側は舗装されていない。
養殖場で聞いた戸土分校跡の石碑。 ここから近いらしい。
かつて「塩の道」として往来が多かった道だ。
”薙鎌神事の 境ノ宮 参道入り口”の立て看板。
本来はここで右折して山道を登るのだが、勘違いして直進してしまう。
車で来られるのは、ここまで。
但し、車高の低い車は、県境の空き地に停めた方がよい。
但し、車高の低い車は、県境の空き地に停めた方がよい。
ここから 境ノ宮 参道入り口までは、10mくらい戻る事になる。
チェーン封鎖を超えると、かなり急な上り坂になってくる。
「塩の道」は、この先の小谷温泉まで続いている。
獣道に近い状況になって来た。
この先、どれくらい坂道を歩かねばならないか、不安になる。
もう薙鎌は諦めて帰ろう。 そう思い、杉の大木だけは撮ってみた。
来た道を戻り、振り返る。 すると、先ほどの立て看板。
立て看板を再度撮影していると、なにやら奥に道がある。
塩の道博物館で、道には草木が生い茂っていると聞いている。
綺麗に除草された道を数百メートル登っていくと、
何かが、ある。
もしかして、境ノ宮?
良かった! 境ノ宮には辿り着いた。
お賽銭の後、解説看板を読んで、汗が引くのを待つ。
さて、御神木はどれ?
崖際にあり、昨年の地震で少し傾いたと聞いていたので、この木か?
ありました! なぎかま!
諦めて一旦は帰ろうとしていたので、見つけられて嬉しかった。
過去に、打ち込まれた薙鎌が盗まれるという罰当たりな事件があったらしい。
かなり錆びていて、木の生長と共に内部に埋もれていくような状態だ。
かなり高い御神木です。
杉林の間から日本海が見える。
■現代の薙鎌はハイテク加工機で製造されているのだろうか? 太古の昔は日数を要した加工作業も、今じゃ市販の鉄板をレーザー加工機でくり抜いて完成。 形状だけの品物なら所要時間は、わずか数十秒。 そう思っていたのだが、茅野市の鋸鍛冶職人が請け負い、焼入れも含め正真の刃物として造っているるそうだ。 素材も鉄のままで、錆びないステンレスには変更していない。 薙鎌の側面には、タガネで諏訪大社銘と年号が打ち込まれる。 薙鎌は、御柱祭の”御柱見立て”にも用いられており、長野県民には、ご存知の方が多いと思う。
写真は、info.shimohisakata.comより借用。
鳥のトサカのように見える鎌。 由縁について書き始めたら、ブログが終わらない。
■帰りは再度、塩の道博物館に寄り、薙鎌発見と道路状況を報告。 薙鎌探しの旅を終え、次はヒスイを求め”おまんた祭”の糸魚川へ。 根知姫(奴奈川姫)が身に付けていた首飾りは、ヒスイ製だったという伝説。 これを基に姫が居たと推定される地域を探索した結果、昭和13(1938)年、ヒスイが発見された。 この続きは、いつの日か記事にします。 今日は、この辺で終了です。

<参考サイト>
糸魚川市HP 「奴奈川姫の伝説」
khuriltai17.jimdo.com 「奴奈川姫」
出雲に伝わる神話 「大国主の神話」
新潟県立図書館 「デジタルライブラリー年表」 2万年前の旧石器時代~昭和51年
八ヶ岳原人「白池・薙鎌打神事旧跡」、「境の宮の薙鎌」
全国郷土紙連合加盟新聞社 「諏訪大社御柱祭 上社本見立てへ「薙鎌」製作」 END